山田町 震災後2回目の水中捜索を終えて

2回目の水中捜索が終わりました。
その時の様子です。
水中捜索1
水中捜索2
実は1回目の捜索はほぼ不完全燃焼でした。
自分の中での勝手な想像は海の中には無数の
自動車や家、瓦礫などが散乱しその中に行方不明の方が
多数いてその捜索を行うものと思いっていました。
しかし現実では捜索どころか潜水活動もするかどうか
わからないとの話からスタート
責任の所在は、管轄はなど社協や災対との微妙な空気に
初日は陸上でのボランティア活動をさせていただきました。
その後役場窓口担当者と直接話ができ責任はすべて潜水士個人が
引き受ける事、現場での直接指揮は災対にまかせ我々はその指揮下に
入り事でようやく調整がすすみ翌日からの捜索活動がスタートしました。
既に潜れる時間は1日消化してしまい早く活動をスタートさせたい
潜水チームと水面捜索チームとの連携がとれず微妙なずれが生じたまま
活動がスタートしました。
海の中は想像よりはるかに落ち着いていましたが
想像を絶する危険な場所でもありました。
限られた時間を一人の多くの行方不明者を見つけたい
そうはやる気持ちの中で時間だけが過ぎ短い4日間の
捜索活動は打ち切りとなりました。
我々はいったい何をしにこの町に来たのか?
なぜお一人の方も見つける事もできずにかえるのか?
その悔しさと歯がゆさが残る中最後まで連携がうまくとれなかった
水面捜索
チームと別れの挨拶もすることなく5名の潜水士は山田を後にしました。
それぞれの思いで自宅に帰りつきまたいつもと変わらぬ時間が過ぎようとしていました。
自宅ついた私を静かに一言「お帰り」と迎えてくれた妻の言葉に急に安堵したのか
疲れがでてすぐに眠りにつきました。
がすぐに目が覚めてしまいます。
眠いのに眠れない。山田の町が海がずっと頭の中でまわりはじめました。
少し眠ると町の名前がでてきます。
なぜかほとんど記憶にない町の名前まではっきりと。
そんな夢なのかわからない状態が4日間以上も続きました。
仕事も手につかず毎日山田町の震災前の写真や海を見続けていました。
GWは始まりどうにか落ち着いたかに思えたときでも夜にはやはり山田の夢です。
明らかに私は山田町に呼ばれている。そう実感しました。
確かにGW明けには戻りますとお話しましたが何も具現化していないまして
このままいけばまた前回の微妙な空気のまま捜索活動を行うことはどうなのか?
と思っていましたのでなかなか行動には移しきれませんでした。
そんな中で行くと決断したのは自分を呼ぶ見えない存在なのかも知れません。
行こうと決めると話は早くリーダーの大坪氏と連絡をとりあいお互いの仕事の
スケジュールを確認しあい参加者に声をかけました。
残念ながら仕事の都合や諸々の都合で前回参加した人は集まれませんでしたが
今回も新たな潜水士が1名加わり3名で山田町に再び戻ることができました。
今回は前回の反省もあり町の人、漁師さん達の意向を最大限に汲み取り
我々先導のもと各ポイントを捜索させていただきました。
肉体的にはかなりハードでしたが水面での捜索チームとの連携もようやくとれ
一体となり捜索活動ができたため精神面ではかなり楽でした。
またツイッターなどのからの応援メッセージも我々潜水士3人組には
とてもうれしく今日はこんなメッセジーが来たなどと自慢しあいながらの5日間でした。
全ての捜索活動が終了し我々潜水組は帰路につきました。
帰ってからは毎日のように見ていたあの夢は今は見ることはなく
ここ数日間よく眠れています。
でも帰りの日突然体調が悪くなり1日寝ていました。
寝ている時ある中学生が僕の夢の中に出てきました。
自転車に乗っている中学生は自分が被るヘルメットを指さし
何かを言っていました。
それが何を言っているのか僕にはわかりませんでした。
ただ覚えているのは最後の日大沢で見つけた白のヘルメットと
同じ物だった。
それだけです。
山田町のみなさん今回は大変お世話になりました。
結局僕達はお一人の方しか見つける事ができませんでした
ましてや合流してからはどなたも水中で見つける事ができませでした。
何と言っていいか言葉も見つかりません。
ただ僕達は山田町が忘れることはできません。
一生僕たちの心に刻まれる思いです。
まだまだ継続して捜索活動にあたっている自衛隊や海保
水面捜索隊の仲間達 ボランティアの方
懸命に復興を行っている町の方達
今回僕たちの水面の捜索ボランティアは一旦終了となりますが
また改めて自分達ができる活動を山田町で再開できるように
調整していきます。
くれぐれもお体に気をつけて
お元気でいてください。
またお会いできる日まで

山田町 震災後2回目の水中捜索を終えて”へ5件のコメント

  1. 大浦湾 より:

    本当にありがとうございました。水中を見ていかに大変な思いで捜索されたのかがよくわかりました。

  2. まめボラ より:

    山田町での捜索活動お疲れさまでした。
    覚えていらっしゃらないかもしれませんが、
    4/20がれき撤去で一緒に活動させて頂いた者です。
    (男女5人グループのうちのひとりです。)
    あの日は確か、海が荒れていて午前中はがれき撤去、
    午後から潜りに行かれたはず…
    ブログからさまざまな御苦労の中、活動をされていた事が伝わります。
    また、再度現地に入られた事、本当に頭が下がります。
    私はその後、高齢者の介護や介護事業所へのヘルプなど
    介護の経験を生かし福祉関係のボラに携わりました。
    福祉関係でも行政と現場の微妙な空気、温度差を感じました。
    行政との連携、震災後の混乱に加え、
    地域にもともとある諸事情が絡まり
    非常に難しい課題となっている感じました。
    私もどこか”やり残し感”があり、
    再度訪問の予定を考えています。
    ブログを拝見し、勇気を頂きました。
    ありがとうございます。
    長文失礼しました。

  3. mota より:

    >まめぼらさん>大浦湾さん
    コメントありがとうございました。
    陸上のボランティアの方々のご苦労は私達の比ではありません。
    社協や災対本部関係の我々は寝る場所も上のコテージで布団もベットも暖房もテレビもシャワーもの完全に完備されていました。
    私が現地に行くまでは、社協のスタッフも災対本部も、ボランティアの人達もみな同じ環境で復興に務めているのだと思っていました。
    ボランティアのみなさんのご苦労をみて本当に頭が下がります。またそんな大変な環境でもきちんと規律を守り懸命に作業されているみなさんがおられました。
    町長始め役場の方との会食をする機会がありましたが、正直かなりの温度差は感じました。
    それぞれの立場があり仕方ないのかも知れませんが、複雑な思いでした。
    でもどんな状況であれわが身が必要とされ、少しでもお役に立てるのであれば、時間を作ってまた行きたいと思っています。
    もし山田町で再開できたらぜひお声掛け下さい。

  4. まめボラ より:

    ねぎらいの言葉ありがとうございます。
    私の参加した団体は地元の方の好意でお借りした敷地にコンテナを設置し、
    その中で寝泊まりして活動していました。
    確かに、正直4月とはいえ、真冬並み?と思えるほどの冷え込みに苦労しました(笑)
    でも、我が家を無くされた被災者の方を思えば、
    それほどの苦労とは感じませんでしたよ。
    活動終了後、近隣市町村の行政、ボラセン等の動きを追うと、山田町の特殊性が浮かびあがってきました。
    実際に町長など幹部との接触があったとのこと、何かお感じになる事があったと思います。
    山田町でお会いする事ができれば幸いです!

  5. フジ より:

    山田住民です。今回初めて拝見させて頂きました。わたしも家族を捜しています。実際、どのような捜索をしていただいているのか、わたし達にはわかりません。役場からも住民には報告はありません。海捜索ボランティアさん達には本気に感謝の気持ちでいっぱいです。来てくれてありがとうございます。

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